シロクマのしあわせ練習帖

朝空写真と脳内排出、ときどき夜空

こころにしあわせの種を持つということ

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マッチ売りの少女。大晦日の夜にみすぼらしい姿のマッチ売りの少女が、売れずに残ったマッチで暖を取りながら炎の向こうに夢や理想を投影し、大好きだった祖母の姿を見るためにすべてのマッチを擦り、最後の一本で祖母に抱かれて星になったというアンデルセン童話集の一作である。

子どもの頃は、なぜかかわいそうだけど情景が美しいおはなし、最後はおばあさんに抱かれて星になったというハッピーエンドに思えていたのに、大人になった今読み返してみると、酷い話だとしか思えなかった。

マッチに投影する幻影は「夢は儚いもの」としかとらえることができないし、少女がみすぼらしい恰好をしているのは、貧しいからなのか、それとも父親の虐待なのかといった疑問が頭を離れない。乱暴な馬車からよけるときに転んで失くした、たった一足しかもっていなかったその靴がお母さんからのお古だったということは、お母さんが亡くなっていることを想像させる。だとしたら父親は、愛する妻を亡くしたことで惨忍な人になってしまったのだろうか。それとも、もともとDV野郎で、耐えられなくなってしまい蒸発、もしくは先立ったのだろうか。それとも、病弱なのにまともに治療をうけることなく、虐待状態で働かされて過労死したのだろうか。現実を知った今となっては、あらゆる残酷な現実と照らし合わせて少女の背景を想像してしまう。

「もうどこにも行くところがないの」と、亡くなった祖母のところへ行くことを懇願した少女は、祖母に抱かれる夢をみて微笑みながら亡くなった。新年の朝、その少女の遺体とマッチの擦り殻を見た街の人々は、寒さの中暖を取ろうとして死んでしまったと憐れむが、文末は「少女がマッチの火でおばあさんに会い、天国へのぼった事など、誰も知りませんでした」と締め繰られている。この一文でハッピーエンドと認識せざるを得ないのである。

少女は最後、亡くなった大好きな祖母に抱かれながら、祖母のいるところへ向かうことができた。

少女の視点でとらえるならば、ハッピーエンドなのである。しあわせなんて、視点を変えるだけでこんなにも真逆になるものなのだ。

死が少女の未来を閉ざしたという、悲しい出来事として捉える視点もある。しかし、死だけが悲劇なのだろうか。みすぼらしい姿でマッチを売らなければならない少女の置かれた環境も悲劇。たとえ、街ゆく人々が憐れんでマッチを買ってあげたとしても、少女の環境は何一つ変わることが見込めないそれも悲劇。芦田愛菜が子役で有名な松雪泰子の主演ドラマ「Mother」のように、誘拐という罪を覚悟し、その残酷な環境から隔離しようとする誰かが現れたとしても、それは一時のしあわせに過ぎないことも悲劇。

けっきょく、しあわせなんて本人が決めることであって、周りがとやかく判断することではないのだ。死を肯定するつもりはないが、やはり、マッチ売りの少女は切ないながらもハッピーエンドなのだ。もし、アンデルセンが、この物語に“みつを”よろしく『しあわせはいつもじぶんのこころがきめる』的なことをメッセージにしているならば、アンデルセンすげーなと思ってしまう。

そして、同じような設定のはずなのに、フランダースの犬は悲劇として感動するのに、なぜマッチ売りの少女は感動こそしないもののハッピーエンドを感じさせるのか。それは、マッチの炎の温かさと大好きな祖母のチカラだろう。

心の中に、マッチの炎と祖母のような存在を作っておくことが、「しあわせ」の基礎なのかもしれないと思った。

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