Watana Bear's Life Makeovers

空の写真 と 脳内排出 ときどき しあわせ練習帖

全ての始まりは「闇」から始まる

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会計の仕事をしている以上、月に1度締め前後のバタバタは回避できないことぐらい覚悟はしていたものの、今回はメンタル的にズタボロにされてしまった。

わたしの担当業務は、直接会計を締める作業に直結していないのだけれど、締めた後に社内に配布する資料をあれやこれやと作る関係上、締めた翌日があわただしい。今回は、悪条件が重なった。前段階の作業が半日遅れた上に、会社のVPNがクソ重い状態。毎月のことだから「お祭り」として楽しむ精神力を身に着けたつもりでいたのだが、珍しくノックダウンを食らったのは「息子のライブ」と日程が重なり行けなかったことにある。

資料配布日が決められているので、締め切りに追われる仕事のひとつである。根が社畜体質なのでその辺は平気な方であり、むしろへんなアドレナリンが出るのでそのコト自体は楽しめるのだが、今回電池が切れたのは「息子」が絡んでいたからだ。

簿記検定受験を控えていたので「締め日だから行けない。でももし早く終わったら行きたいかな」レベルの欠席通知をしておいた。だが、心のどこかであきらめていなかったらしく、ライブが終わる時間に業務が終わった時に、生命力すべてが奪われた。

「仕事を休めず子供の学芸会や運動会に出向けなかった悲しみ」と、「推しのライブやコンサートの日に想定外に仕事が長引き、会場付近で空気さえ味わうことすらできなかった悲しみ」を足した感覚なのである。足して2で割るわけではない。加算、いやなんなら乗算ぐらいの悲痛である。今や息子はわたしにとっては「子ども」というポジションだけではなく「推し」という存在でもあるわけで、たんなる親ばかではなく、スーパーな親ばかに進化しているのである。

業務から解放された後、生気を失いながらも簿記の勉強だけはした。ところが、この簿記資格取得とて、仕事の成り行きで勉強しているわけで。そのことが脳裏をかすめたとたん、私の心は崖っぷちに向かっていた。エレファントカシマシの「悲しみの果てに」を謳いながら、脳内では日本海の崖っぷちに立っていた。BGMは火曜サスペンス劇場のエンディング「マドンナたちのララバイ」というカオスな妄想である。

ドラマと違って誰も引き留めに来ない妄想劇場。人間そう簡単には死なないのだよと、妄想の中の自分を弄る「天の声」の自分。結局己は絶望すらこうやって楽しんでいるのかと、妄想劇場を鑑賞している自分が嘲笑っていると、ライブを終えた息子が帰宅する。

バレンタイン月ということもあり、チョコやらなんやらの差し入れを頂いたらしく、戦利品をテーブルに広げる。学生時代から貢ぎ物の中にチョコがあると、チョコが嫌いな息子に代わってわたしが食べる習慣となっている。チョコを食べながらライブの様子をサクッと聞く。ライブの話が楽しいのと、チョコを食べるとついつい酒が飲みたくなるのと重なり、明日も仕事とわかっていながらうっかり買いだめしてしまっていた「本搾りレモン」6缶パックに手を付ける。息子が寝た後も結局寝付けず、流れで飲み続けた。気づけば3時、350ml缶を合計3本開けていた。

見逃していたドラマを2本鑑賞しても、読者登録しているブログを読んでも、眠れず、結局「悲しみの果てに」を謳い始め、一連の妄想劇場を繰り広げたまま朝方眠りについた。

翌日は心を無にして業務についた。コロナに感染したころも、同じく締め時期だったことに加え、年に一度の事業計画の準備が重なり、結局「自宅療養」と「リモートワーク」を混同した状態で業務を続けたという虚しさがよみがえり「理不尽」の三文字が心にぽっかり穴をあけ、挙句の果てに「ダークマター」を大量に詰め込み始めていた。

15年前の酒浸りの日々から根本的なことは何一つ変わっていない。

このままだと闇に飲み込まれると思い、3日目は貝になった。15年前から進化したひとつに「闇に飲み込まれそうになったときは、自ら闇を創る」がある。自分が作った闇は外部から襲ってくる闇と違い、不思議とどこか心地よい。闇というよりは殻に近く、お気に入りの肌触りのタオルケットやぬいぐるみに埋もれながら、ベッドから一歩も出ずにいると、まるでその闇は「母親の子宮」の中にいるような錯覚を感じるわけで。自分で自分の身を守る最終手段である。

こうして必要最低限の業務をこなして乗り越えたその日の夕方、はてなの公式Twitterからこのブログの紹介をしていただいた。正直にうれしいと思う気持ちの片隅に、なぜ日々アクセス数が1か2のこのブログ?という疑問が湧いた。

それでも、日々細々と更新し続け、たとえ読んでくれる人は1人か2人のこの裏ブログでも、毎日書いていれば誰かの目に留まってくれるのはうれしいことで、ブログも人生も同じなのだという思いに至る。

生きていれば誰かの目に留まる。たとえ素通りだったとしても、誰かの目に留まったということは、そこにわたしが存在したという証なのだから。「悲しみの果てに」を謳いながら崖っぷちに立つ妄想も、生きていればこそできることなのだから。

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