3月1日に思う「正邪」の基準
3月が始まった。弥生。旧暦の和風月名を新暦にそのまま当てはめるのは、季節感もくそもないだろうがと思いつつ、弥生の語源を調べた。
雪が消えたばかりの東北から状況したのは3月下旬。東京の温かさと、冬でも布団が干せることと多くの花や緑が見られることに感動をした。
保育士の仕事をしていたころ、おたよりの季節のあいさつや、壁面装飾、こどもたちに導入する遊びなど、どうしても実際の季節感との乖離にモヤモヤしていた。
上京して感動したのは、歌やそういった標準の季節が実際の季節とすべて合致していることだった。
旧暦の本日を変換すると、2022年1月 29日 。新暦に導入して正解とおもうものの、和風月明の季節感が伴わないことにモヤモヤしてしまう。草木が生い茂る月はやはり4月から5月の新緑の時期をイメージするわけで。この季節感の乖離にモヤモヤがよみがえってしまう。
どうでもいい話だ。
きっと西日本のどこかに、暦通りの季節感を味わる土地があるのだろう。
***
何を基準とするかで正邪が分かれる中、ちっぽけな日本の常識や法律がすべてと思うことの危険性を、いまいちど平和ボケした頭で何が正しいのかを考えるべきだと思う弥生の朝。
争いが起こるたびに、答えのない哲学的なことをぐるぐるさせてしまう。
その国が抱えてきた悲しみも知らずに、正義だけを振りかざすことへの違和感を感じながらも、誰かが声を上げなければ悲劇がまた繰り返されると不安になる。
歴史を学ぶことの意味をなんとなく分かった気がする。学んだところで、国家レベルの解決策を見いだせるわけでもないのだが、理解はできるようになるのだろう。
「クナシリ」という映画を見たときに感じた「事実を知る」ことの大切さ。事実とはなんだ?報道は事実を伝えているのか?ニュースばかりを見て事実を知った気になるな、といったことにまで掘り下げることになるのだが。
どんな世界になろうとも、わたしはわたしを生きていくだけだ。自分の目の前で起きたことだけが事実だと、受け入れて生きていく。
(888)