Watana Bear's Life Makeovers

空の写真 と 脳内排出 ときどき しあわせ練習帖

雑草だって花は咲く。

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仕事初め。夢の中ですでに仕事をしている自分に驚く。そして、あんなにだらけた朝が続いた正月休みだったのに、スイッチを切り替えるように目が覚め、起床している自分に驚く。

ただ、体のスイッチは切り替わっていないらしく、何度も何度も大きなあくびが出てしまうので指が進まない。脳もまだ起きていないようで言葉も思うように出てこない。

かといって無の状態とはちょっと違う。脳内はイメージのようなものがカオスになっているだけで、それが脳内で言語化されないだけである。

脳が疲れているのかもしてない。昨晩、今週末に出かけようと思っている場所を調べたせいだろうか。

Google MAP地図で、幼少期に住んでいた場所を探す。引っ越さなければ通っていたであろう小中学校、子供の頃遊んだ公園、友人の家、幼稚園の行事で走った坂道。どれもピンポイントでしか記憶に残っておらず、この道を行けば何がある、ここに向かうためにこの道を通ったなどの、地形的な記憶は全く残っていない。

この土地の小学校に通わなかったので、社会科的な知識もない。あるのは文部科学省が共通して教科書に掲載する、土地名とリンクした歴史トピックだけだった。

学区内で行ける範囲の史跡を数カ所と、住んでいた場所から一番近い神社をピックアップし、あとは、もし高校受験するならばどこを選んだだろうかという「妄想」モードに突入した。

自分が通った高校に近い偏差値の高校を検索、もしこの地域で学習していたらもう少し偏差値はあがってたのだろうか、逆に下がっていたのだろうかなども想像する。家から一番近い高校は?通いやすい高校は?制服は?などとあれこれ検索したあと、15歳の私が高校を選んだ基準と同じ条件「家から近い」で2高チョイスする。

受験生やその親が使うであろう、高校の口コミサイトを見てみる。もちろん令和と昭和じゃ比較ならないことはわかっている。併せて当時の高校生活を語るスレ的な所まで掘り下げてみて、風のうわさで聞いた地域的な治安の良し悪しを合わせて、あんな高校生活、こんな青春時代をおくっただろうなどと妄想モード全開の夜を過ごした。

ありもしないことを妄想するのは楽しいけれど、後に残る虚しさ、虚無感といったら半端ない。待っているのは現実しかなく、過去というのはどう頑張っても変えられない事実なのだ。人生いくつになってもやり直せる、学び直せるとは言ったところで、最終学歴は書き替えられたとしても高校までの経歴はやり直しができないのである。

もし、あの時あの高校を受験していたらといった妄想をすることはあったけれど、履歴書に名を書くことになった高校を選んだことを後悔したことはない。意外と「現実を受け入れる能力」的なものは備わっているらしい。

昔、置かれた場所で咲きなさい (幻冬舎文庫)という本を読んだことがある。ひと花咲かせたかどうかは別として、その時その時を生きてきた自分を受け入れられているということなんだなと、今は思える。

そして、これからも置かれた場所で咲くことだけを考えよう。あわよくば、たんぽぽの綿毛のように咲く場所を風任せにしてみるのもよいな、などと思えた仕事始めの朝だった。

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