Watana Bear's Life Makeovers

空の写真 と 脳内排出 ときどき しあわせ練習帖

非日常を楽しむということ。

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昨日の曇天が嘘のような青空と朝日。嘘ではないことを一面の雪が証明してくれる。

東京の冬が好きな理由は、雪がイベントになることだ。昨日降り続いて積もった雪も、次の日には徐々に消え去り2~3日もすれば跡形もなくなってしまう。雪は日常ではなく、ひとつの非日常にしか過ぎないのである。

ただ、日常ではない分、混乱を招きやすいところが残念なところである。

日常と非日常、その間に面白味があるわけで、人間はこの2つを行き来することで、リセット・リフレッシュされる。日常ばかりではつまらない日々になりかねないし、非日常ばかりだと、いつしかそれが日常になってしまう。ほどよく、ふらふらと往来を楽しむのが人生の醍醐味である。

ここ数か月は、週末も「日常」だけで過ごしてきたように思う。コロナ禍に突然突入し、初めの頃は自宅で仕事ができるという非日常に気持ちが上がり、不必要に他人と直接接しないことも非日常だった。季節が一巡したころにはそれももう、すっかり日常となり、それまでの日常には戻れないという思いに打ちひしがれていた。

体の距離感と心の距離感は比例していないとわかっていても、こころのどこかで寂しさを感じることが増えていた。前を向くしかないとわかっていても、人と会うことや都外へ出向くことに気を遣う空気が残ったままでは、心の底から非日常を楽しめないのである。どんなにボッチ力があろうとも、ソロ活が推奨されようとも、それが日常になった今ではリフレッシュされない。

そうか、人にあうことが非日常になったのだ。

多くの人のストレスは人間関係にあると、心理学者や哲学者はいうけれど、今の時代は人に会わないことさえストレスになっているのか。誰かに話をしたところで、解決にはつながらないけれど、体の中の不快な何かが排出される。少しでも何かが癒されるのだ。

今も昔も変わらずできることは、排出、つまりアウトプット。その方法は人それぞれだが、自分が心地よい場所で、気兼ねない相手に、苦痛じゃない手段でアウトプットすることが大切なのだ。

この日記もそうである。ノートの保管を苦痛に感じることなく、使い慣れたインターフェースのはてなブログで、自分に興味を持ってくれた人だけが読むであろうこの場所に、頭の中でごちゃごちゃしていることを排出していく。

書くというよりは、排出に近いこの状態が、行為自体が日常になったとしても、読んでくれる人が日常ではない限り、ここは立派な非日常である。日本中、世界中の日本語が読める人と出会うかもしれないという非日常を楽しんでいこう。

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