推しができたことの喜びを噛み締める
妙チクリンな夢で目覚める。気になる夢を見ると、意味があるのかしら?と検索をすることがあったけれど、最近はしなくなった。もし、本当に意味があるのならば、自分なりにこうなのだなと受け取ればいいじゃないかと思うようになったからだ。
世にあふれる、夢診断、夢占いなど検索をかけたところで、解釈は各々かわっていたりするのだから。占いと同じだ。受け手がどう受け取ったか、そしてその受けたことを自分のプラスにするかマイナスにするかどうかが重要だ。依存や執着していてはマイナスにしかならない。こうなんだな、と受け取ったら「あとは野となれ山となれ」でいればよい。不安要素があったならば「気を付けよ」で何か対策する程度に留めておけばいい。
それでも、いつもの癖でスマホを手にしてしまう。検索する手を止めて、推しの検索をし始める。自分のゴキゲンは自分でとればいい。今回の推し検索は「推しのルーツ」。彼の出身地やご両親、そして今後の活動について予測をする。
私は「推し」の意味がよくわかっていなかった。たんなる熱烈なファン、もしくはファンが独占欲全開にグッズをコレクションするぐらいにしか認識していなかった。
私はファンになったとしても、ひっそりこっそり愛でるタイプで、布教活動なんて顔から火がふくほど恥ずかしいと感じるタイプだ。決して奥手とかウブとか、絶滅危惧種な昭和の乙女というわけではない。
以前、CDやDVDを受け取った際に「あとで返すね」といったところ、「大丈夫、それ布教用だから」と言われたことがある。「フキョウヨウ?」初めて耳にしたときは、瞬時に漢字変換ができないほど意味がわからなかった。同じ推しを持つ同士が増えることを、彼ら彼女らは求めているのだということを不思議に持たざるを得なかった。
対象が異性で、妄信的に、熱烈に好きになってしまったのなら、同士ではなく、ライバルとは感じないのだろうか?今となっては消え去った親衛隊も含め、理解に苦しんできていた。
確かに、同じものを愛好する仲間がいることはうれしいし、楽しいのはよくわかる。ただ、仲間を増やすために勧誘する行為、しかも経費をかけてまでもするだろうか、つい1年前までそう感じていた。
愛が足りない。客観的に自分を振り返ると、対象物への愛がたりなかったのではないだろうか。妄信的になることも、独占や束縛をしたがる人に多い「自己満足」なのである。いや、むしろ「元気をもらう」「癒しをもらう」などの自分本位で依存的な愛。愛というよりは執着である。
推しがよりしあわせに活動していくために、何かサポートする。その対象を愛する人が増えることで、よりよい環境で活動する機会が増える。対象物の良さを世に知らしめたい。そうか、無償の愛に近いのか。それはもう、自分の子どもを愛する気持ちとなんら変わりはないのかもしれない。
推しとは、他の人にすすめること。また俗に、人にすすめたいほど気に入っている人や物のことである。
言葉の意味をよく理解せずにいた自分が恥ずかしく思える。ファンと推しとは別ものであるということを知った後、軽々しく「推し」という言葉を使わないようにして来たが、ここ最近、ようやくわたしにも「推し」ができたのだ。
2022年は、推し事に励もう。
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