Watana Bear's Life Makeovers

空の写真 と 脳内排出 ときどき しあわせ練習帖

朝目覚めるだけで「ログボ」がもらえるゲームを楽しむ

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1月が終わる。本館のブログでちょっと早めの月報記事を書いたが、後半戦はほぼ簿記の勉強に夢中だった。やっと問題集一冊終えたのだが、習得度がいまひとつピンとこない。7割正解なら合格なのだが、自分がどのほどなのか模試を受けていないのでわからない。わからないから不安になって焦る。焦るといっても人格が崩壊するほどテンパっているわけではなく、むしろ、落ちたら再受験すればいいだけの話で、むしろ無駄な出費が増えることの方が精神的に辛い。会社勤めごときになぜゆえ経費をかけなければならない。

正社員化に向けて資格を取得することになったのだが、受験の条件は資格所有が必須というわけではない。上司が推薦しやすくなるというだけの理由である。決して上司のために資格を取得するわけではないのだが、かねがね3級ぐらいは取っておきたいと思っており、死ぬまでにやりたいことリストのひとつに「簿記の勉強」を掲げていたので、むしろその思いを具現化するためのきっかけになったと、感謝するぐらいの余裕は持ちたいものだ。

 

それでもやはり、にんげんだもの。まだ3級に合格をしていないというのに、その先の2級のことまで考え始めていた。2級ともなると少し難易度は上がり、教材費も3級に比べて干桁が変わる。どうにかして安く経費を抑えるプランを探すが、受かってからにしろよと思う自分と、仕事に役立つ知識なのだから勉強しておいて損はないだろという自分が争う影で、かけた経費に対して年収がどのほど上がるのかと、打算を始める自分がいた。

無駄なことはしたくない。人生の前半に無駄な時間を多くとりすぎたからこその反動。人生における無駄と思える経験こそが、人間の奥深さを形成すると思っているが、それは人生の前半戦だけのことだ。死ぬ間際まで無駄の多い人生だったなんて思いたくないと思っている。

姑がなくなる直前に言っていた。「年取ると欲がでるね、もうちょっと生きたいって思うようになった」

苦労がなかったわけではないのだろうが、好き勝手生きているように見えた姑。出会ったころに「いつ死んでもいいと思っている」と豪語しているのを目の当たりにして、自由人の潔さのようなものに少しだけ憧れたりもしていた。それゆえに、生に欲を見せ始めた姑が、なんだか情けない存在に見えたものだった。

いま思えば、いつ死んでもいいというのは、自由気ままに生きて後悔のない人生を送っているという意味ではないということだ。終活を始める世になって、むしろ逆だということを知る。どこか人生にあきらめのようなものを感じていたから、いつ死んでもいいというのだ。過去をしっかりと整理整頓して、好奇心が沸き起こり始めると「もっと生きたい」になるはずだ。

人生はいろんなものに例えられて表現される。つい数年前まで「人生は映画や小説のようなもの」と思っていたが、ここ数年は「ゲーム」だと思うようになった。自分というアプリを立ち上げるとログボをもらい、ガチャを回し、コツコツとレベル上げをして、ミッションをクリアしていく。

わたしは「わたし」というゲーム(人生)を楽しむ。ゲームをクリアする喜びと、ゲームを創るという喜びと、二重に楽しめるお得なゲーム。効率よくクリアしていくために、頭と労力を費やすこともまた楽しい。ゲームをクリアする日々の中で、次のミッションを創っていくというゲームクリエイターの楽しみも味わえる。

今は、簿記2級の勉強をするというミッションを公開するかどうかを検討している、ゲームクリエイターなわけだ。人生に創造性を見出すことが、幸せに長生きするコツのようだ。

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