月光を浴びて目が覚めた朝、登山を志す
わたしは目覚ましを使用していない。その代わりに、自然光が入るように、カーテンを開けて寝ている。朝型、明るくなると自然に目が覚める体になっている。
部屋の配置換えをする前は、窓の向こうに他住居が見えない位置だったのでレースのカーテンさえフルオープンだった。方角的に間接照明となるため、レースのカーテンを半分閉めていると前ほどの明るさは感じられず、日差しの弱い冬は二度寝の嵐である。
今朝、ふと目が覚めると明るいのに、部屋は暗いという不思議な現象に面食らった。数年に一度こんな現象が起こるのだが、雲一つない満月の夜、朝型ちょうど月の光が差し込む角度になると、その明るさに目が覚めてしまうのだ。
今朝はたまたま温かく、布団やモフモフたちを顔周りにぎゅぎゅっと集めていなかったことが功をなしたと思われ。仰向け、首周りの布団がオープンになっていたことで、ばっちりスポットライトを浴びてしまったのである。
そろそろ、光を浴びることを意識しろと言われているような気がした。無駄に頑張ることよりも、出来ることを楽しむことに慣れていたコロナ禍。簿記の勉強をきっかけに、ちょい頑張ることの楽しさを思い出したのか?簿記に限らず、何か、自分がやりたいと思ってきたことに対して、結果を出すことにこだわってもいいのではと思えてきているのかもしれない。
テッペン取らなきゃ意味なくね?と尖ってふてくされていた若き日々。やればできるのにと言われてきた若き日々。本当にやればできるのか?と、たかだか数か月頑張り、結果テッペン取れなかったことに夢は見ないと人生をあきらめた若き日々。
中年を通り過ぎようとする今、熟年に向かって悪あがきか。悪い癖だ。でも悪くない。あんなに嫌悪感を抱いていた「熟女」という響きにも、なにか心地よさや魅惑すら感じるようになってきた。
テッペン取ることにこだわりを持たなくなった今、テッペンだけが眺望とは限らないということを知り、道中を楽しむことへの憧れが出てきた。もちろん、頂のある山は数々あることも承知だ。どの山を登り、どの登山口から入り、どのルートを選ぶのか、計画を立てることも楽しみのひとつなのだろう。
諸事情あってテッペン目指せず下山した話も、下界に来てみればひとつの武勇伝である。もう、登ってきた人の話を、下界で聞くのには飽きてきたのだ。
そろそろ、自分でも登りたくなってきているという証拠である。
ただ、5時ころスポットライトを浴びて目が覚め、写真まで撮影したというのに、起きてなにか活動しなかったということは、まだ登山計画は完璧ではないということだな。
手始めに、気が向いたらスニーカーで登れる高尾山あたりから攻めてみるのも手かもしれない。小さな山でも登ってみれば、何かが変わるかもしれない。まずは、登る山を探そう。
(1150)