Watana Bear's Life Makeovers

空の写真 と 脳内排出 ときどき しあわせ練習帖

陽の当たる場所を探すこともまた努力のひとつではないだろうか

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ツートンに見えなくもない空。太陽の位置と、雲の厚さと切れ目がそんな風に見せる。実際の日の出の位置は、一番明るい場所よりももっと右側の筈なのに、どうしても一番明るい部分に目を奪われる。

今日の太陽は裏方である。

人は陽のあたる場所に目を奪われるが、あまりその光源を見ようとする人はいない。自然界で光源を見るとすれば、日の出と日没くらいであろう。日中当たり前にいる太陽など、むしろ目を傷めるので直接見てはいけませんと習ったぐらいだ。

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小さなころから器用貧乏だったわたしは、自分が思うようにできないと悔しさをバネに習得しようとするが、ひとたび人並のレベルを超えると満足する。人と比べることはあまりしないので数値的な結果を残そうという気にはならないので、何かコンテスト的なものに参加しようと思うこともない。

なので、陽の当たる場所に出たこともないし、陽の当たる場所にでるための努力をしたことがない。陽を当てられた人の気持ちはわからないままである。どんな努力をして、どんな苦しい思いを乗り越えてきたのか、私にはわからない。

そんな風に壁や山を乗り越えてきたからこそ陽を当てられても堂々としていられるのかもしれない。揺るがない何かが備わっているのかもしれない。

太陽には自分から光を発するエネルギーを持っているが、当たり前すぎて注目する人はあまりいない。そして陽の当たる場所もしかり。陽の当たる場所を人は注目するが、陽が当たり続けると、ひとたびそれは当たり前になりだれも注目することがなくなるのである。

もし、2者どちらかを選ぶとするならば、太陽のような人になりたいのか、太陽の陽を当てられる人になりたいのか。人生折り返し地点を過ぎ、エネルギー不足なわたしにとって、きっと今から容易にできるのは後者のほうである。衰退していくココロとカラダゆえ、自分の中のエネルギーを維持することだけで精一杯。自ら光を発することなど、並み大抵の努力が必要となるであろう。

もちろん陽の当たる場所に出ることや出続けることも、並み大抵の努力が必要となろう。それでも、陽の当たる場所に出る努力をすることだけでもできるはずである。死ぬまでに一度でも陽が当てられたなら儲けもんだぐらいの気軽さで、何かに打ち込むことは出来るはずなのである。

陽の当たる場所を探してみよう。

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