Watana Bear's Life Makeovers

空の写真 と 脳内排出 ときどき しあわせ練習帖

鬼も邪も、神も正も、自分の腹の中にあるだけのこと

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鬼のパンツは臭いぞ臭いぞ・・・

フニクリ・フニクラの曲をベースにした童謡「鬼のパンツ」。正しくは「鬼のパンツはいいパンツ、強いぞ、強いぞ」なのだが、ふざけて歌っているうちに、自分の中で「臭いパンツ」に定着していた。鬼だろうとアイドルだろうと、パンツは臭いものである。

節分の朝、この曲を歌いながら玄関先にヒイラギを飾り、鬼も神になりうることを考えていた。仏教では閻魔さんの使いのモノというイメージであり、日本ではモノノケや妖怪のような扱いをされていることの方が多い。ただ、中には鬼滅の刃の竈門禰豆子のように、人間の味方となるような善行を行うモノもあり、方々では神として祀られているのも事実である。

神にも色々いる中で、鬼もまた色々いるのである。結局は学術的に分類されていようとも、ふたを開ければ「いろんなモノがあるのがこの世の中なのだ」ということに気づくと生きていることが愉快に思えてくる。見方を変えるだけで「おもしろみ」が出てくるこの世界を愉しまずにいるのは損である。

神も鬼も人が作り出した偶像、もしくは人の化身だという捉え方もある。わたしはどちらかというと、この考え方の方がしっくりくる。天皇家の先祖をたどると天照大神につながるという説も、天照大神卑弥呼だった説も、結局は人が言い伝えただけのことだからだ。

無神論を唱えるわけでもないし、ナニかを崇拝し世間一般の「神」を神格化しているわけでもない。自分の中に神も鬼、天使も悪魔の真逆の感情や思考が存在していることもまた、この世の中にはいろんなモノが共存していることと同じに過ぎないと思っているだけのことだ。

人は見たいものだけを見る生き物である。守護神や幽霊なんかもまた、人が錯覚をしてみた単なるエネルギーの化身に過ぎない。

自分の周りにあるモノ、人、出来事すべては、自分の中にあるものが投影されているだけのことなのだ。愚痴、誹謗、中傷、世辞ばかり言う人には、それだけの世界に身を置いているだけのことにすぎないわけで。思考することなく、自分の中に意見を持っていないだけのことである。

自分の中にある鬼や神の存在を認めること。禍もまた何か自分の中にある何かを浄化するための出来事に過ぎず、すべては自分の腹の中にあることを肝に銘じて生きていればそれもまた「しあわせ」なのである。

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今週のお題「鬼」