チョコレートになんの意味はないのだけれど
天気予報の雪マークは雲マークに変わっていたが、冷たい雨の気配が残る朝だった。
昨晩帰宅した息子が、先輩の女友達からもらったといって、東京ミルクチーズ工場のチョコ味の焼き菓子をテーブルに広げた。2枚ほど味見をして簿記勉強で疲れた脳にエネルギー補給をする。
先輩のうちに遊びに行き、初めて会った女子から配られたチョコ。おそらくおこぼれ的なものに預かったのだろうけれど、しっかりとした箱を2個ももらってきた。おそらくその女子は誰が何人いてもいいように、焼き菓子の箱を数個調達していたと思われるわけで。もはや義理チョコ、友チョコなんてもう分類はなく、なんならもう挨拶代わりの名刺とか、保険外交員の飴ちゃんレベルに近い存在になっているんだなと感心した。
わたしには、そんな心配りやイベントを楽しむという感覚がない。うっかりこの記事を書きながら「あぁ、息子にチョコをあげればよかったかな」と思った程度の、残念な人間である。女子力以前に親としても終わっている。息子がチョコ嫌いということもあるのだけれど、いつからか「もらってきたものを食べる日」に変わり、今ではもうチョコの存在すら気にならないようになっていた。もともと「所詮、製菓会社の販売戦略だ」という気持ちが根底にあるので、余計なものを買わない生活に慣れた今では、当然余計なことはしないことに慣れてしまっているのだ。
枯れているという見方もあるかもしれない。こんな余計と思えることが人間関係の潤滑油になることぐらいわかっているのに、いまのわたしは「潤滑油が必要な人間関係すらいらない」と思い始めているのである。油を注さなきゃいけないような機械は、生産性はないわけではないのだが重いだけである。
どんどん軽量化され、充電や自動でアップデートされるスマホやノートPCのような人間関係だけで十分である。それは、決して利便性を重視しているわけではなく、どちらかと言うと「手放せない唯一の」という意味に近いかもしれない。
それってパートナー的な存在なのではと思うものの、いまやパートナーと友人の境目は何なのかすらわからなくなっているのである。どっちがどっちに寄ったのかはわからない。考えるだけ無駄なような気もするけれど、所詮パートナーも他人であり血のつながりはないことには変わりない。裏を返せば、大切な存在に戸籍の枠組みは関係ないという意味にもなる。
自分を愛するように他人を愛しなさい。誰かが言った。自分を愛することすら知らなかった頃は、他人から愛されることばかりを考えて苦しんできた。苦しさから逃げるようにそぎ落としてきた人間関係で、最後に残ったのは相手が自分のことをどう思っているかなんて気にならない間柄ばかりだった。
自分自身の心距離感をほどよく保てるようになった今、他人との距離感も程よく保ち、大切に思えるようになってきているのだなと、バレンタインの焼き菓子を通して気づくことができた。
もうすこし、自分の心のメンテナンスに潤滑油(アルコール)が要らなくなったら、だいぶ生産性が上がるような気がしているけれど、少しずつマイナーチェンジしていこうではないか。人間は、寿命のその瞬間まで変わることができるのだから。
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