Watana Bear's Life Makeovers

空の写真 と 脳内排出 ときどき しあわせ練習帖

大切なものを守るために、闘わなければならないことがある

昨晩、知人の親の訃報が届いた。20代後半の知人なので、亡くなった親の歳は60代である。50代にようやく足を踏み入れた私にとっては明日は我が身でしかなかった。

気になるのは、自分が死ぬことよりも残された息子のことである。知人も息子と同じ一人っ子である。幸いなことは心不全で亡くなったため、看病や介護などなかったことだと語っているのを聞くと身に沁みる。

一晩開けて、朝の静けさの中黙々と掃除をしていると、ふと涙が溢れてくる。残念ねがら亡くなった方とは一度もあったことがないため、故人を偲んでの涙ではない。ならばなんだろう。湧き上がる感情の意味がわからず戸惑うも、願うことは一つである。

残された息子が困るような最期にはなりたくない。

そのために今できることを考えなければと焦る。夫の財産はどのほどなのか、優先的に片付けなければならない負の財産から整理してかなければならない。呑気に卒婚バンザイなどと浮かれている場合ではなかった。

片付けることを片付けてから羽を伸ばさねば。片付けるのは金のことか?と一瞬頭をよぎる。今まで自分がしてきたことに対して、見限ることなく養ってくれたことを思えばこれから恩返しをするべきなのだろうと思いつつ、世の熟年夫婦の苦悩やブラック企業を辞められない人たちの苦痛はこんな忠誠的な恩義という名のもとに生まれているのではないだろうかと思ったりもする。

いや待てよ。例え夫婦関係を解消し、負の財産から逃れたとしても、息子にとっては親である以上、永遠に付き纏う相続問題なのではないだろうか。

やはりこれは、自分だけ逃れて「セーフ!」となるわけには行かない。なんとかしなければである。お金のことだけでなく、お金に関わる法律のことも学ばねばならない時期が来たようだ。

夫に金の話をすると、機嫌を悪くするのは目に見えているが、今年はなんとか現状把握と今後の対策を検討するまでに持ち込みたいところである。

見たくないことから目を背けるだけでは、本当の意味での平穏な生活は得られないのである。

なんとかしなければ。

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